世界が止まり、
私たちは今までの当たり前の尊さを身をもって実感した。
当たり前に人と会うこと、当たり前に働くこと、当たり前に呼吸をして、当たり前に食事をすること。公共の物を当たり前に使うこと。
全ての当たり前が、突然奪われることがある。
そう教えてくれたのは紛れもなく「新型コロナウイルス」であろう。
そんな、世界が止まったと言われた2020年から時が経ち、コロナ禍がもはや当たり前になった。
今は「コロナ禍」なのか「アフターコロナへの移行期間」なのか「アフターコロナ」なのか。
そんなことすらもわからない。
曖昧で、言葉で定義することが難しい期間だと思う。
「コロナウイルスに自分がかかること」「大切な人がコロナウイルスにかかること」
「もしかしたら、自分もしくは大切な人を失うかもしれないこと」なんて、
当たり前になってきたのかもしれない。
そこでふと思う。「当たり前に感謝する」って「満足すること」なんだろうと。
私は思う。
「当たり前に感謝する」瞬間を作ると同時に、
「今の当たり前をアップデートしたい」と思う欲は少なからず悪ではないと。
新型コロナウイルスの蔓延により、
「今までの当たり前がどれほど貴重だったか」を再認識した。気付くことができた。
私たち人間に立ち止まる大切さ、自分にとっての大切なもの・こと・人について考える時間を与えてくれた。
でも一方で、多くを求めようとすることが悪のように感じてしまうこともあった。
しかし、
今この瞬間がどれほど貴重であるか、と考えるからといって、
「成功を求めたり、欲を出すことはよくない」と考える必要はないと思う。
人それぞれ、「当たり前」の基準は違う。描く理想も違う。
今の当たり前に目を向けた時、
どれだけ「当たり前が貴重であるか」を意識した上で
それ以上のことを求めること。
これは悪ではない。
重要なのは、
「当たり前の今に向き合い、自分の描いた理想に進むこと」だ。
当たり前に満足することが正解ではない。
当たり前に感謝することは、自分自身がより良い当たり前を作るための通過点に過ぎない。
そう思うことにした。
満足することではないと。
私は恵まれている。
それでも、あと一歩手を伸ばしたいことがあるし、何かを欲しいと思ってしまう。
ただ、それは悪ではない。
誰かに「悪」と言われることでもない。
他人の欲を評価するな。
あなたの想像の中の目の前の誰かは、あなたの想像の中の人間に過ぎない。
それでも私たちは他人の欲を評価する。
知らないうちに人の欲を評価する。
年収をあと〇〇円増やしたい。
タワーマンションに住みたい。
就職したい。
コンビニのおにぎりが食べたい。
いろんな欲がある。
そしてよく聞く言葉はこれだ。
「強欲だ」
「もっと欲を出せ」
私は特に「強欲だ」と言う言葉が嫌いだ。
既に目の前の相手は「恵まれている」「満たされている」と自分の価値観で解釈して、
人生をアップデートしようとする、高次元を目指す人に対してよく使われる「勝手な意見」
と私は解釈している。(今まで生きてきたことを振り返り思う)
果たして、強欲だろうか?
強欲と感じる感情は、
「私」によって形成された「目の前の誰か」に対しての解釈と意見にすぎない。
「私」の目の前の誰かを、私は全て知っているだろうか?
確実に、知らない。
知ることなどできない。
四六時中一緒にいても目の前の人を完璧に理解できる人はいない。
なぜなら、感情や価値観などという、
自分自身ですらも理解できないものがあるから。
あなたにとっては、目の前の人が恵まれているように見えても、
その人にとっての幸せの定義はあなたの想像とは違うかもしれない。
他人の欲を評価できる人間など、世の中には存在しない。
それでも私たちは、誰かの欲を自分の解釈と定義で評価してしまう。
だから、意識するしかない。
自分は相手の全てを知らないことを。
自分は相手に対して自分の定義(ものさし)で相手を「勝手に解釈」していることを。
そう思うことにした。
私がおもう人間の美しさは、「分かり合えなさ」だ。
自分では意図せずに誰かを喜ばせたり、誰かを傷つけてしまう。
自分のものさしで人を見てしまう。
それでも「分かり合えないこと」は、悪じゃない。
人間の美しさだ。
そして、苦痛だ。
私たちはきっとこれからも、
「分かり合えない」のに、わかっていると思って他人の欲を評価してしまうだろう。
そんな時がきたら、
私の想像できない、目の前の人の幸福の定義に触れたことを喜ぼう。
そして、素直にわからないことを認めよう。そうすることにした。
わかるはずがないけど、わかりたい。
手にしたくても手にできないのは、人間の感情だった。
それでも誰かに愛され、認められ、わかってほしい、わかりたいと思う私たち人間は、
いつになってもきっと美しくて、愛おしい。
