小説を書いています。ノベルゲームを作りたいです。
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日本国籍で生れてからずっと日本に住む私にとって、そもそも海外のサーバーに投稿するという経験は自覚的にはあまりありません。 しかし、小説も表現活動です。それによって誰かが不快な思いをするかもしれません。しかし、同じ表現でも、それを求める人がいるかもしれません。 そして、問題や真理を探究することを目的とする場合は、不快な表現を使わざるを得ない可能性もあります。表現の自由はそれを保障してくれます。 ただ、例外もあります。差別的発言など、誰かを傷つける内容や、様々な損害を与える内容は法律によって規制されています。
試しにアメリカの法律をAIにきいてみたところ、日本より厳しい規制があるようです。宗教的背景や、国家の在り方などが、それに影響を与えているのかもしれません。 一方で日本は様々な表現規制が緩いです。一定の規制はありますが、日本に住んでいて、平気で政権の悪口を言えたり、わいせつなものもネット上に何食わぬ顔で存在したりします。AIにたずねただけなので、実情や法の運用はまた違うのかもしれませんが、試しに世界中で禁書になった書籍をウィキペディアで調べてみました。
様々な書籍がありますが、日本では一般に流通している文学作品さえ、国によっては禁書扱いになっているものもあります。様々な宗教的背景、道徳観、イデオロギーなどが、国の在り方、法規制にも影響を与えているのでしょう。
さて、web3の分散型インターネットに小説を投稿した際、どこの国の法律が適用されるのでしょうか?
それがまだ、私にはわかりません。これまでのインターネットは、発信者の住む国や、サーバーの置かれている国などが関係してきました。私は分散型インターネットの仕組みについてまだ詳しく理解できていませんが、これまでのようにサーバーの置かれている国が関係するなら、一体どこの国の法律を参照すればいいのでしょうか?
あるいは、世界中のすべての国の法律が認める範囲しか発信できないのでしょうか? AIにきいたところ、まだ法整備が整っていないとのことです。国際弁護士のような人にきけば、多少なりともわかるのかもしれませんが、私には今のところそのような手段がありません。
そして、そもそも表現の自由とは、民主主義を支えるために保障されたという経緯もあり、普遍的な権利であるべきだが、当然の権利ではないということを知りました。
日本でもう30年ほど人生を送ってきましたが、今日調べるまで、表現の自由は当然の権利だと思っていました。古代ギリシャの民主主義のような過去もありますが、今のような表現の自由は長い歴史の中で獲得された権利ではあると頭ではわかっていました。SNSやインターネットは国境を越えます。民主主義を支えるのにSNSやインターネットが役立たないのであれば、もしかするとはく奪される権利かもしれない、と空想した時、再び過去の歴史を思い浮かべ、私たちの国家制度や法律、人権がいかに努力の上に成り立っている不安定なものかを感じました。
私が馬鹿だったのか、あるいは島国の日本人は私と同じように幻想にとらわれている人が多くいるのでしょうか。
私が小説を書きたいのは、狂気とは何か、狂気とはいかにあるか、狂気に陥った人はいかに生きていくべきか、あるいは狂気の中の美とはなにか、それをどう扱うべきか、ということです。狂気と存在がメインテーマになってきます。しかし、精神疾患など医療情報を書くことは法規制の対象になるかもしれません。あるいは狂気という呼び方が、そもそも差別的と言われるかもしれません。しかし、私は狂気という表現を使いたいです。それは歴史的に狂気という概念が精神疾患とはまた別に存在するからです。また、ミシェル・フーコーの著作を高校生の時に少しばかり読み、それに影響されているのもあるかもしれません。私の言葉として、狂気という言葉には、その対象となる人の尊厳を貶める意図はありません。ただ、非倫理的な行為を非難することはあると思います。一方で、そのような行為をするのはなぜか、きちんと考えてから非難するようにしたいです。
法規制を順守したいのですが、発達途上のweb3、分散型インターネットの法整備を考えると、なかなか小説の投稿に至れないというのが現状です。とりあえず無難なものを書こうとしたものの、全世界の国の法律に許容される内容というのは、そう簡単ではありません。そもそも全世界の法律や慣習について、島国で暮らし続けていた英語も話せない私が詳しく知るはずがありません。
どうすべきか、ゆっくり考えていきます。
日本国籍で生れてからずっと日本に住む私にとって、そもそも海外のサーバーに投稿するという経験は自覚的にはあまりありません。 しかし、小説も表現活動です。それによって誰かが不快な思いをするかもしれません。しかし、同じ表現でも、それを求める人がいるかもしれません。 そして、問題や真理を探究することを目的とする場合は、不快な表現を使わざるを得ない可能性もあります。表現の自由はそれを保障してくれます。 ただ、例外もあります。差別的発言など、誰かを傷つける内容や、様々な損害を与える内容は法律によって規制されています。
試しにアメリカの法律をAIにきいてみたところ、日本より厳しい規制があるようです。宗教的背景や、国家の在り方などが、それに影響を与えているのかもしれません。 一方で日本は様々な表現規制が緩いです。一定の規制はありますが、日本に住んでいて、平気で政権の悪口を言えたり、わいせつなものもネット上に何食わぬ顔で存在したりします。AIにたずねただけなので、実情や法の運用はまた違うのかもしれませんが、試しに世界中で禁書になった書籍をウィキペディアで調べてみました。
様々な書籍がありますが、日本では一般に流通している文学作品さえ、国によっては禁書扱いになっているものもあります。様々な宗教的背景、道徳観、イデオロギーなどが、国の在り方、法規制にも影響を与えているのでしょう。
さて、web3の分散型インターネットに小説を投稿した際、どこの国の法律が適用されるのでしょうか?
それがまだ、私にはわかりません。これまでのインターネットは、発信者の住む国や、サーバーの置かれている国などが関係してきました。私は分散型インターネットの仕組みについてまだ詳しく理解できていませんが、これまでのようにサーバーの置かれている国が関係するなら、一体どこの国の法律を参照すればいいのでしょうか?
あるいは、世界中のすべての国の法律が認める範囲しか発信できないのでしょうか? AIにきいたところ、まだ法整備が整っていないとのことです。国際弁護士のような人にきけば、多少なりともわかるのかもしれませんが、私には今のところそのような手段がありません。
そして、そもそも表現の自由とは、民主主義を支えるために保障されたという経緯もあり、普遍的な権利であるべきだが、当然の権利ではないということを知りました。
日本でもう30年ほど人生を送ってきましたが、今日調べるまで、表現の自由は当然の権利だと思っていました。古代ギリシャの民主主義のような過去もありますが、今のような表現の自由は長い歴史の中で獲得された権利ではあると頭ではわかっていました。SNSやインターネットは国境を越えます。民主主義を支えるのにSNSやインターネットが役立たないのであれば、もしかするとはく奪される権利かもしれない、と空想した時、再び過去の歴史を思い浮かべ、私たちの国家制度や法律、人権がいかに努力の上に成り立っている不安定なものかを感じました。
私が馬鹿だったのか、あるいは島国の日本人は私と同じように幻想にとらわれている人が多くいるのでしょうか。
私が小説を書きたいのは、狂気とは何か、狂気とはいかにあるか、狂気に陥った人はいかに生きていくべきか、あるいは狂気の中の美とはなにか、それをどう扱うべきか、ということです。狂気と存在がメインテーマになってきます。しかし、精神疾患など医療情報を書くことは法規制の対象になるかもしれません。あるいは狂気という呼び方が、そもそも差別的と言われるかもしれません。しかし、私は狂気という表現を使いたいです。それは歴史的に狂気という概念が精神疾患とはまた別に存在するからです。また、ミシェル・フーコーの著作を高校生の時に少しばかり読み、それに影響されているのもあるかもしれません。私の言葉として、狂気という言葉には、その対象となる人の尊厳を貶める意図はありません。ただ、非倫理的な行為を非難することはあると思います。一方で、そのような行為をするのはなぜか、きちんと考えてから非難するようにしたいです。
法規制を順守したいのですが、発達途上のweb3、分散型インターネットの法整備を考えると、なかなか小説の投稿に至れないというのが現状です。とりあえず無難なものを書こうとしたものの、全世界の国の法律に許容される内容というのは、そう簡単ではありません。そもそも全世界の法律や慣習について、島国で暮らし続けていた英語も話せない私が詳しく知るはずがありません。
どうすべきか、ゆっくり考えていきます。
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