音楽プロデューサーとしての経験をブログに書いている。
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AIが当たり前になってから、「自分が音楽をやる意味」について考えることが増えた。Sunoにプロンプトを入れれば、一瞬でそれっぽいビートやBGMが出てくるし、自分で作ったトラックをaudio inputとして入れると、「ワイ、天才」と思ってしまうような仕上がりで返ってくる。その一方で、AbletonやGadgetでゼロからビートを作っているときには、「こんなんじゃダメだよな」と自分にダメ出ししてしまう自分もいる。
AIがいるからこそ救われている部分と、AIのせいで自信を削られているように感じる部分。その両方を抱えたまま、「AI時代に、私が音を出す意味って何だろう?」という問いと付き合っている。
よくクリエイターは、「なぜそれを作るのか」「誰に届けたいのか」と問われる。でも、今の自分の答えはすごくシンプルだ。
なぜ作るのか?
→ 暇を感じないようにするため。
誰の心に、どう届けたいのか?
→ 自分の心に届ける。ジムで自転車を漕いでいるときに、最初から最後までノンストップで流せる、自分用のインストアルバムとして。
つまり、まずは「自分の時間を、自分の音で埋めるため」に作っている。再生数や評価よりも、「今この瞬間、どんな音の中で生きていたいか」が動機になっている。
AIがどれだけ音楽を自動生成できるようになっても、「どの音と一緒に過ごしたいか」を決めるのは自分だ。その選択権がある限り、音楽をやる意味はちゃんと残る。
「AIで音楽を作る」と聞くと、「全部AIに投げて終わり」というイメージが強いかもしれない。でも実際に自分がやっているのは、もっと入り組んだやり方だ。
たとえば、こんな流れがある。
Sunoでループやコード進行を出す
その音をKoala Samplerに入れてチョップし、自分のグルーヴでビートにする
Ableton Liveで構成・アレンジを組み立てる
これは「AI → 自分」というスタートの仕方だ。AIがきっかけをくれて、自分がそれを料理する。
一方で、逆パターンもある。
Ableton LiveやAbleton Note、KORG Gadgetで、完全自作のビートやループを作る
その自作トラックをSunoにaudio inputとして入れて、カバー版や別バージョン、ロングミックスを生成させる
これは「自分 → AI」という始まり方だ。まず自分が土台を作り、その上にAIに違う景色を足してもらう。
だから、自分のワークフローは一方向ではなく、
AI → 自分 → AI → 自分
自分 → AI → 自分
みたいに、状況に応じて音を行き来させながら、最後の形を決めている。AIはネタ出し・質感・別テイクの生成に強く、自分はグルーヴ、チョップの場所、曲の構成、「どのテイクを採用するか」の判断を握っている。この往復そのものが、すでにかなり"濃いハイブリッド"だと思う。
ここまでAIを使い倒していると、「もう全部AIでよくない?」という発想も浮かぶ。実際、自分も何度かそう思ったことがある。でも、今のところの答えはこうだ。
全部自分で打たなくていいけれど、「完全手打ち曲」はこれからも必要。
理由はいくつかある。
自分の"原液"を濃くするため
自分でゼロから作ったビートやループは、Sunoに入れたときの「カバー元」や「種トラック」になる。この"原液"の個性が濃いほど、AIが返してくる別バージョンも、自分らしさを保ったまま化けてくれる。
耳と手の感覚を維持するため
ノートを打つ、サンプルをチョップする、ドラムを組む。こういう作業を続けていると、「このスネアが気持ちいい」「この休符の取り方が好き」という感覚が身体に残る。その感覚があるからこそ、AIの出した音をそのまま受け入れるのではなく、「ここからさらに自分のノリに寄せる」という判断ができる。
「AIに通さなくても好き」と思える曲を持っていたいから
AIカバーを聴いて「ワイ、天才」と思うのも最高だけれど、同時に、「AIなしでもこれは好き」と言える自作曲をときどき作っておくと、心の支えになる。それが、自分の中での"素の実力"みたいなものを保つ役割も果たしてくれる。
だから、自分の中のルールとしては、
月に何曲かは「完全手打ち縛り」で、AIを一切使わず完走させる
それとは別に、普段の制作ではSuno・Koala・Ableton・Gadgetをフル活用して、ハイブリッドな作品を量産する
完全手打ち曲は、いずれAIに食わせてもいい"種"としてストックしておく
こんなバランスがしっくりきている。
面白いのは、AIと一緒にやっていると、自分の中に二人の声が出てくることだ。
Sunoで自作ビートをカバーさせると、「ワイ、天才」とテンションが上がる自分
逆に、AIを使わずに打ち込んでいるとき、「こんなんじゃダメだ」と自信を失う自分
この二人は矛盾しているようでいて、どちらも本音だと思う。
AIは、「自分のアイデアをプロっぽく鳴らす」ことに関しては、本当に強い。だからこそ、そのギャップで、自分の"素の音"がショボく感じて落ち込むこともある。
でも、よく考えたら、AIが勝手にゼロから「自分の代表曲」を作っているわけではない。プロンプトを書いているのも、自作トラックをaudio inputとして渡しているのも、どのテイクを採用するか選んでいるのも、自分だ。
AIは自分のアイデアを増幅しているだけで、何もないところから"私の音楽"を盗んでいるわけじゃない。
そう捉えると、「AIなしでは生きられない自分」と「自作を誇れる自分」は敵同士ではなく、同じクリエイターの違う側面に見えてくる。
今の自分の具体的なゴールは、ジムで自転車を漕いでいるときにかける「自分用ノンストップインストアルバム」だ。BPMを厳密に揃えるよりも大事なのは、
曲が途切れず流れていくこと
全体として、自分好みの質感とグルーヴでまとまっていること
イヤホンから流れてくる音が、「今の自分の生活とテンション」にフィットしていること
ここでは、「AIか人力か」はあまり重要ではない。Sunoで作った長尺のトラックを繋いでもいいし、完全手打ちのビートを並べてもいいし、その両方を混ぜてもいい。
結局のところ大事なのは、
そのアルバムが、自分のペダルを回す手助けになっているかどうかだ。
AIは、そのための時間短縮や、アイデアのバリエーションを増やすための強力な道具でしかない。主役は、「このアルバムを自分のために作りたい」と決めた自分のほうだ。
AIが音楽を自動生成できるようになった今、「人間が音楽をやる意味」は、昔よりも大げさなものじゃなくていい気がしている。
暇を感じないように、自分の時間を自分のビートで埋める
ジムや作業中、自分を支えるBGMを、自分の手もAIも使いながら作る
自作曲をAIに通して「ワイ、天才」とニヤニヤする
ときどきAIなしで完走した曲を聴いて、「これは俺の音だな」と静かに思う
この全部をまとめて、「AI時代でも、私が音楽をやる意味」だと今は感じている。
AIが音楽を"生成"してくれる。人間の自分は、その音に"意味"を与える。
その意味づけのプロセスの中で、暇が埋まり、生活がちょっとマシになり、今日もジムでペダルが回る。その程度の、ささやかで個人的な理由であっても、音を出し続けるには十分すぎるのかもしれない。
AIが当たり前になってから、「自分が音楽をやる意味」について考えることが増えた。Sunoにプロンプトを入れれば、一瞬でそれっぽいビートやBGMが出てくるし、自分で作ったトラックをaudio inputとして入れると、「ワイ、天才」と思ってしまうような仕上がりで返ってくる。その一方で、AbletonやGadgetでゼロからビートを作っているときには、「こんなんじゃダメだよな」と自分にダメ出ししてしまう自分もいる。
AIがいるからこそ救われている部分と、AIのせいで自信を削られているように感じる部分。その両方を抱えたまま、「AI時代に、私が音を出す意味って何だろう?」という問いと付き合っている。
よくクリエイターは、「なぜそれを作るのか」「誰に届けたいのか」と問われる。でも、今の自分の答えはすごくシンプルだ。
なぜ作るのか?
→ 暇を感じないようにするため。
誰の心に、どう届けたいのか?
→ 自分の心に届ける。ジムで自転車を漕いでいるときに、最初から最後までノンストップで流せる、自分用のインストアルバムとして。
つまり、まずは「自分の時間を、自分の音で埋めるため」に作っている。再生数や評価よりも、「今この瞬間、どんな音の中で生きていたいか」が動機になっている。
AIがどれだけ音楽を自動生成できるようになっても、「どの音と一緒に過ごしたいか」を決めるのは自分だ。その選択権がある限り、音楽をやる意味はちゃんと残る。
「AIで音楽を作る」と聞くと、「全部AIに投げて終わり」というイメージが強いかもしれない。でも実際に自分がやっているのは、もっと入り組んだやり方だ。
たとえば、こんな流れがある。
Sunoでループやコード進行を出す
その音をKoala Samplerに入れてチョップし、自分のグルーヴでビートにする
Ableton Liveで構成・アレンジを組み立てる
これは「AI → 自分」というスタートの仕方だ。AIがきっかけをくれて、自分がそれを料理する。
一方で、逆パターンもある。
Ableton LiveやAbleton Note、KORG Gadgetで、完全自作のビートやループを作る
その自作トラックをSunoにaudio inputとして入れて、カバー版や別バージョン、ロングミックスを生成させる
これは「自分 → AI」という始まり方だ。まず自分が土台を作り、その上にAIに違う景色を足してもらう。
だから、自分のワークフローは一方向ではなく、
AI → 自分 → AI → 自分
自分 → AI → 自分
みたいに、状況に応じて音を行き来させながら、最後の形を決めている。AIはネタ出し・質感・別テイクの生成に強く、自分はグルーヴ、チョップの場所、曲の構成、「どのテイクを採用するか」の判断を握っている。この往復そのものが、すでにかなり"濃いハイブリッド"だと思う。
ここまでAIを使い倒していると、「もう全部AIでよくない?」という発想も浮かぶ。実際、自分も何度かそう思ったことがある。でも、今のところの答えはこうだ。
全部自分で打たなくていいけれど、「完全手打ち曲」はこれからも必要。
理由はいくつかある。
自分の"原液"を濃くするため
自分でゼロから作ったビートやループは、Sunoに入れたときの「カバー元」や「種トラック」になる。この"原液"の個性が濃いほど、AIが返してくる別バージョンも、自分らしさを保ったまま化けてくれる。
耳と手の感覚を維持するため
ノートを打つ、サンプルをチョップする、ドラムを組む。こういう作業を続けていると、「このスネアが気持ちいい」「この休符の取り方が好き」という感覚が身体に残る。その感覚があるからこそ、AIの出した音をそのまま受け入れるのではなく、「ここからさらに自分のノリに寄せる」という判断ができる。
「AIに通さなくても好き」と思える曲を持っていたいから
AIカバーを聴いて「ワイ、天才」と思うのも最高だけれど、同時に、「AIなしでもこれは好き」と言える自作曲をときどき作っておくと、心の支えになる。それが、自分の中での"素の実力"みたいなものを保つ役割も果たしてくれる。
だから、自分の中のルールとしては、
月に何曲かは「完全手打ち縛り」で、AIを一切使わず完走させる
それとは別に、普段の制作ではSuno・Koala・Ableton・Gadgetをフル活用して、ハイブリッドな作品を量産する
完全手打ち曲は、いずれAIに食わせてもいい"種"としてストックしておく
こんなバランスがしっくりきている。
面白いのは、AIと一緒にやっていると、自分の中に二人の声が出てくることだ。
Sunoで自作ビートをカバーさせると、「ワイ、天才」とテンションが上がる自分
逆に、AIを使わずに打ち込んでいるとき、「こんなんじゃダメだ」と自信を失う自分
この二人は矛盾しているようでいて、どちらも本音だと思う。
AIは、「自分のアイデアをプロっぽく鳴らす」ことに関しては、本当に強い。だからこそ、そのギャップで、自分の"素の音"がショボく感じて落ち込むこともある。
でも、よく考えたら、AIが勝手にゼロから「自分の代表曲」を作っているわけではない。プロンプトを書いているのも、自作トラックをaudio inputとして渡しているのも、どのテイクを採用するか選んでいるのも、自分だ。
AIは自分のアイデアを増幅しているだけで、何もないところから"私の音楽"を盗んでいるわけじゃない。
そう捉えると、「AIなしでは生きられない自分」と「自作を誇れる自分」は敵同士ではなく、同じクリエイターの違う側面に見えてくる。
今の自分の具体的なゴールは、ジムで自転車を漕いでいるときにかける「自分用ノンストップインストアルバム」だ。BPMを厳密に揃えるよりも大事なのは、
曲が途切れず流れていくこと
全体として、自分好みの質感とグルーヴでまとまっていること
イヤホンから流れてくる音が、「今の自分の生活とテンション」にフィットしていること
ここでは、「AIか人力か」はあまり重要ではない。Sunoで作った長尺のトラックを繋いでもいいし、完全手打ちのビートを並べてもいいし、その両方を混ぜてもいい。
結局のところ大事なのは、
そのアルバムが、自分のペダルを回す手助けになっているかどうかだ。
AIは、そのための時間短縮や、アイデアのバリエーションを増やすための強力な道具でしかない。主役は、「このアルバムを自分のために作りたい」と決めた自分のほうだ。
AIが音楽を自動生成できるようになった今、「人間が音楽をやる意味」は、昔よりも大げさなものじゃなくていい気がしている。
暇を感じないように、自分の時間を自分のビートで埋める
ジムや作業中、自分を支えるBGMを、自分の手もAIも使いながら作る
自作曲をAIに通して「ワイ、天才」とニヤニヤする
ときどきAIなしで完走した曲を聴いて、「これは俺の音だな」と静かに思う
この全部をまとめて、「AI時代でも、私が音楽をやる意味」だと今は感じている。
AIが音楽を"生成"してくれる。人間の自分は、その音に"意味"を与える。
その意味づけのプロセスの中で、暇が埋まり、生活がちょっとマシになり、今日もジムでペダルが回る。その程度の、ささやかで個人的な理由であっても、音を出し続けるには十分すぎるのかもしれない。
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