私たちの生活空間は、しばしば「公(公共空間)」と「私(プライベート空間)」という二項対立で語られます。しかし、実際の暮らしや都市には、公と私のあいだにある“あわい”のような領域が存在します。
その代表例が「庭」です。
庭は屋外にありながらも完全な公的空間ではなく、同時に家の中の私的空間と同一ともいえません。ここでは、この「庭」をキーワードに、リアル/デジタルの両空間を接合する思考実験を行い、身体性やコミュニティ、情報技術が交錯する新たな視点を探ってみたいと思います。
まずは空間の三層構造として「私/庭/公」を考えてみます。家や部屋など明確にプライベートな空間が「私」、社会や街路、公園など誰もが出入り可能な「公」、そしてその中間に位置する「庭」です。庭は「家の外」ですが、家に属する一部としての性質をもつ、いわゆる半公的空間といえます。
庭を身体性の観点から捉えると、外界の刺激が家の内部に直接入る前に、一度そこで“クッション”のように和らげられるという特徴が見えてきます。家の壁や窓を通じて感じる外界とは違い、庭では自然の要素(風や光、土、植物など)と人工的な要素(舗装、柵、家具など)が織り交ざり、五感を柔らかく刺激してくれます。身体はそこに出ることで、外界の雰囲気を程よく感じながら、同時に完全に公衆の面前ではない安心感を得ることができるのです。
さらに庭は、視線やルールによる拘束がゆるやかでありながらも、他者からのまなざしを多少意識させる空間でもあります。家と外界のちょうど中間にあるからこそ、適度な緊張と解放感が共存しています。このような感覚は、家の内部だけでも、完全な公共空間だけでも味わうのが難しい、中間領域ならではの魅力といえます。
現代社会ではインターネットやSNS、VR/ARなどの技術発展によって、デジタル空間が“第二の公共圏”として機能するようになりました。そこにはオープン(公)とクローズド(私)という構造があり、SNSの公開アカウントやコミュニティが公、鍵付きアカウントやプライベートチャットが私だと捉えられます。そして両者のあいだにある領域、つまり「デジタル庭」と呼べそうな半公的な場も存在します。
例として、オンラインサロンや、特定メンバーだけが閲覧・参加できるフォーラム、メタバース上でプライベート設定を選択した空間などが挙げられます。そこでは複数の人と交流できますが、不特定多数が自由に出入りできるわけではありません。身体的には離れた場所にいても、ネットワークを介して“庭”的な親密性を共有できるのです。
この「リアル庭からデジタル庭へシームレスに行き来する」思考実験を進めると、現状では「私的な端末でログインする」プロセスを踏まずに入ることは難しいといえます。リアル庭→デジタル庭という経路は、結局のところ「リアル私→デジタル私」を中継しないと実現できません。
しかし将来的には、AR/VR機器やIoT、庭そのものが“認証デバイス”になる仕組みを応用すれば、庭に踏み込むだけでワンステップでデジタル庭にアクセスできる未来が見えてくるかもしれません。
このような“壁抜け”を想定する思考実験は、身体性とテクノロジーの関係を改めて問い直すきっかけになります。従来、私たちはリアル空間の身体と、デジタル空間におけるデータやアバターを、別々の領域として扱ってきました。しかし、情報技術がさらに進化して社会に深く浸透するにつれ、身体と情報が切り離せない状態(ポストヒューマン的状態)に近づいていく可能性があります。
N.キャサリン・ヘイルズは著書『How We Became Posthuman』(1999)で、情報化社会がもたらす人間の身体観・主体性の変容について考察しています。ヘイルズは身体を捨てて意識や情報だけをアップロードしようとする“脱身体化”の思想を批判し、身体と情報が相互に影響し合う「身体化された仮想性 (embodied virtuality)」を提示しました。庭というリアルな場を介しつつ、そこがデジタル空間にそのまま拡張・接続される姿をイメージすると、まさにこの「身体化された仮想性」の一端を垣間見ることができるかもしれません。自然や空気、土の感触をともなう身体と、オンラインでのやりとりや情報アクセスが重なり合う体験が生まれ得るのです。
庭のような半公的領域を考える上で、社会学や都市論からも示唆が得られます。たとえば、レイ・オルデンバーグが『The Great Good Place』(1989)で提唱した「サードプレイス」論では、家(ファースト)と職場(セカンド)のあいだにあるカフェやバー、コミュニティスペースなどが紹介されました。これらは「庭」ほどプライベートに属していない領域ですが、どちらも“中間的な集いの場”という点で共通しています。
また、ミシェル・フーコーは「ヘテロトピア」と呼ばれる概念を用いて、庭などの場所が現実の中にあっても“異質な空間”として作用することを論じました。そこでは、社会や政治の文脈が色濃く反映されているにもかかわらず、自然や象徴性を取り込み、特有の世界観を演出する力が強調されています。庭がもつ「外界への開放」と「プライベート性」という両面は、私たちが身体を通じて自他や社会を意識する際の境界を柔軟に仕切り直してくれるものといえます。
冒頭の思考実験で描いた「リアル庭とデジタル庭を直結する」世界は、技術的・制度的に解決すべき課題を多く抱えています。アクセス管理やセキュリティ、プライバシーをどう確保するか、誰がこの空間を所有・維持し、どのようなルールやコストを設けるのか、といった問題も浮上するでしょう。しかし、都市計画やコミュニティデザイン、メディア研究など多角的な視点から見れば、こうしたテーマはすでに一部で実践されつつあります。
たとえば、ARグラスやVRヘッドセットをかけて庭に出ることで、実際の景色を見ながらオンラインのイベントや会話に参加することは現時点でも可能になりつつあります。メタバースでのライブ配信と庭先でのパーティーを同時開催し、お互いの空間を相互に映し合う試みも十分に考えられます。将来的には、「自宅にいながら、自然の空気や香りを感じつつ、世界中の人とリアルタイムで交流する」といったハイブリッドな暮らしのスタイルが一般化するかもしれません。
庭を身体性という観点で眺め直すと、それは装飾のためだけではなく、私(身体)と公(外界)をつなぐインターフェースとして機能していることが見えてきます。日本庭園にみられるように、縁側や植栽、水の流れなどの設計によって、「室内にいながら外界の季節や光を十分に取り込む」工夫が凝らされています。そこでは自然と人工が絶妙に調和し、身体が静かに外の世界へと開かれていくのです。
このインターフェースが今後はデジタル技術まで包含し、リアル・デジタルの両方をまたぐ新しい空間へと進化していく可能性があります。そのとき、私たちは身体と情報が融合するポストヒューマン的な体験の中で、改めて「自分と社会」「私と他者」「個と自然」といった関係性を問い直すことになるでしょう。私/庭/公という三層構造が、相互に浸透し合いながら新たなコミュニティや自己認識を育む未来が、すでに始まっているのかもしれません。
このように考えてみると、庭は単なる風景や娯楽の場を超え、身体や心、コミュニティと世界を結びつける結節点として非常に豊かなポテンシャルを秘めています。私たちが今後、庭をどのようにデザインし、どのように使い、どのようにデジタルと接合させるかによって、人々の暮らしや都市の在り方が大きく変わっていくことを想像すると、とても刺激的ではないでしょうか。
Mark Weiser, “The Computer for the 21st Century,” Scientific American, 265(3), 1991.
Ray Oldenburg, The Great Good Place, Marlowe & Company, 1989.
Michel Foucault, “Of Other Spaces: Utopias and Heterotopias,” 1967.
N. Katherine Hayles, How We Became Posthuman: Virtual Bodies in Cybernetics, Literature, and Informatics, University of Chicago Press, 1999.
William J. Mitchell, City of Bits: Space, Place, and the Infobahn, MIT Press, 1995.
※記事作成に生成AI(ChatGPT o1 pro mode)を活用しています。
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2007年 「地域医療日誌」ブログ・ツイッターで活動を開始。2015年 ウェブマガジン「地域医療ジャーナル」を創刊(有料会員数 10,886人月)、2018年 オンラインコミュニティ「地域医療編集室」を運営(登録会員数 40人)。
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