
🌐 花角県政政策点検――点検されなかった6年間(URL付)
新潟日報が2025年12月に連載した「花角県政政策点検」(全7回予定)は、県内の主要課題を順に取り上げる形式をとっているものの、実際の検証としては事実と印象の混同が目立ち、6年間の政策評価には不十分なまま終わりそうだ。 以下、各回の内容とリンク、そしてフラー社との接近を含めた観点から整理した。
シナリオ通りの結末:GAFAM・外資コンサル・パランティアなどによる分割統治、ニホン支配完了
2011年から行動修正により変容したニホン社会(3)〜2025年、三位一体支配の完成

2026-2-8選挙結果によるニホン支配構造の完成の背景(1)
データ収集・分析、そして行動修正するGAFAM+外資コンサル系の「思惑通り」の結果
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🌐 花角県政政策点検――点検されなかった6年間(URL付)
新潟日報が2025年12月に連載した「花角県政政策点検」(全7回予定)は、県内の主要課題を順に取り上げる形式をとっているものの、実際の検証としては事実と印象の混同が目立ち、6年間の政策評価には不十分なまま終わりそうだ。 以下、各回の内容とリンク、そしてフラー社との接近を含めた観点から整理した。
シナリオ通りの結末:GAFAM・外資コンサル・パランティアなどによる分割統治、ニホン支配完了
2011年から行動修正により変容したニホン社会(3)〜2025年、三位一体支配の完成

2026-2-8選挙結果によるニホン支配構造の完成の背景(1)
データ収集・分析、そして行動修正するGAFAM+外資コンサル系の「思惑通り」の結果
僕は長いあいだ、どうしても頭から離れない問いがある。原発事故後の南相馬で感じて来たこととは別に、あと二つある。
一つは、後藤健二さんがISISに囚われ、殺害されたとき、なぜ日本社会は彼を見捨てるように扱ったのか。もう一つは、やまゆり園事件を、なぜ日本人だけは考え続けないのかという問い。
この三つは、別々の出来事ではない。同じ一本の線の上にある。
後藤健二さんが殺害されたとき、日本社会に溢れた言葉を、僕は忘れられない。
「自己責任」「危険地帯に行ったからだ」「軽率だった」。
それらは、同情や悲しみの言葉ではなかった。彼の死を、日本政府や国家、ニホンジンやニホン社会が引き受けないための言葉だった。
本当は、もっと重い問いが突きつけられていたはずだ。日本は、国や政府は、自国民の命をどこまで守るのか。同盟国の戦争や国際政治の都合より、人命を上に置けるのか。「安全な日本」という幻想が壊れることを、引き受けられるのか。
その問いにニホンジンは正面から向き合う覚悟がなかった。
だから社会は、後藤健二さんを「例外」にし、「個人の選択の結果」に押し戻した。それは、はっきりとした見捨てる見殺しだったと思う。そんな国は世界中探してもほぼ無い。
やまゆり園事件も同じだ。あの事件は、「異常な個人による凶行」として処理された。
しかし、加害者の言葉は、決して彼一人のものではなかった。
障害者を含め社会的弱者を「役に立たない命」「生きる価値のない人間」「社会のために排除される存在」。それは、日本社会の底に沈殿してきた価値観そのものだった。
もしあの事件を、社会の問題として考え続けるなら、何が起きるか。
- 生産性という物差し
- 迷惑という言葉
- 健常と障害の線引き
- 福祉を「コスト」と呼ぶ感覚
それらすべてを、問い直さなければならなくなる。それを社会が怖かったんだと思う。だから社会は、事件を「狂人の特異点」に閉じ込め、構造から目を逸らした。これも忘却ではない。意図的な集団心理の思考停止だ。
原発事故後の南相馬も同じ構造だった。守れたはずの暮らしや命が切り捨てられ、
責任は分解され、「仕方ない」「想定外」「前に進もう」という言葉で覆われた。
この三つを並べると、一本の線が見える。
守れたはずの命を、国家や社会が引き受けない。
不都合な現実を、個人の問題や例外に押し付ける。
そして、その延長線上で、人を殺す装置を「産業」「仕事」「安全保障」として受け入れる。
武器や殺人兵器の製造は、突然現れた異常ではない。後藤健二さんを見捨て、やまゆり園事件を考えず、原発事故の責任を曖昧にしてきた社会の、自然な帰結だ。
僕が言い続けているのは、単純なことだ。
人間の尊厳を守るために、ここだけは越えるな、という線がある。
人を殺すことを前提にした行為。
誰かの命が失われることで成立する仕事。
それは、どんな理由があっても、正当化されてはいけない。
職業に貴賤はない、という言葉は、人間の尊厳を守るためのものだ。
誰かの死を制度として内包する行為まで免罪する言葉ではない。
小さな会社が「明日から爆弾を作ります」と言えば、人は辞めるだろう。
食品会社が「明日から毒を入れます」と言えば、社会は全力で止める。
それが大企業や国家事業になると、許される。
この倒錯こそが、いまの日本社会の異常さだ。
僕は、怒りたいわけでも、誰かを断罪したいわけでもない。ただ、人間としてここだけは越えるな、と言っている。それを言わなくなった社会は、必ずもっと弱い命を切り捨てる。
後藤健二さんのときに越え、やまゆり園事件で越え、原発事故で越え、いま兵器製造で、また越えようとしている。
だから僕は、足りないと感じる。考えることを、やめられない。これは右でも左でもないし思想でも主義でもない。人間として動物以下にならないように最低限の線を引こうとしているだけだ。
僕は長いあいだ、どうしても頭から離れない問いがある。原発事故後の南相馬で感じて来たこととは別に、あと二つある。
一つは、後藤健二さんがISISに囚われ、殺害されたとき、なぜ日本社会は彼を見捨てるように扱ったのか。もう一つは、やまゆり園事件を、なぜ日本人だけは考え続けないのかという問い。
この三つは、別々の出来事ではない。同じ一本の線の上にある。
後藤健二さんが殺害されたとき、日本社会に溢れた言葉を、僕は忘れられない。
「自己責任」「危険地帯に行ったからだ」「軽率だった」。
それらは、同情や悲しみの言葉ではなかった。彼の死を、日本政府や国家、ニホンジンやニホン社会が引き受けないための言葉だった。
本当は、もっと重い問いが突きつけられていたはずだ。日本は、国や政府は、自国民の命をどこまで守るのか。同盟国の戦争や国際政治の都合より、人命を上に置けるのか。「安全な日本」という幻想が壊れることを、引き受けられるのか。
その問いにニホンジンは正面から向き合う覚悟がなかった。
だから社会は、後藤健二さんを「例外」にし、「個人の選択の結果」に押し戻した。それは、はっきりとした見捨てる見殺しだったと思う。そんな国は世界中探してもほぼ無い。
やまゆり園事件も同じだ。あの事件は、「異常な個人による凶行」として処理された。
しかし、加害者の言葉は、決して彼一人のものではなかった。
障害者を含め社会的弱者を「役に立たない命」「生きる価値のない人間」「社会のために排除される存在」。それは、日本社会の底に沈殿してきた価値観そのものだった。
もしあの事件を、社会の問題として考え続けるなら、何が起きるか。
- 生産性という物差し
- 迷惑という言葉
- 健常と障害の線引き
- 福祉を「コスト」と呼ぶ感覚
それらすべてを、問い直さなければならなくなる。それを社会が怖かったんだと思う。だから社会は、事件を「狂人の特異点」に閉じ込め、構造から目を逸らした。これも忘却ではない。意図的な集団心理の思考停止だ。
原発事故後の南相馬も同じ構造だった。守れたはずの暮らしや命が切り捨てられ、
責任は分解され、「仕方ない」「想定外」「前に進もう」という言葉で覆われた。
この三つを並べると、一本の線が見える。
守れたはずの命を、国家や社会が引き受けない。
不都合な現実を、個人の問題や例外に押し付ける。
そして、その延長線上で、人を殺す装置を「産業」「仕事」「安全保障」として受け入れる。
武器や殺人兵器の製造は、突然現れた異常ではない。後藤健二さんを見捨て、やまゆり園事件を考えず、原発事故の責任を曖昧にしてきた社会の、自然な帰結だ。
僕が言い続けているのは、単純なことだ。
人間の尊厳を守るために、ここだけは越えるな、という線がある。
人を殺すことを前提にした行為。
誰かの命が失われることで成立する仕事。
それは、どんな理由があっても、正当化されてはいけない。
職業に貴賤はない、という言葉は、人間の尊厳を守るためのものだ。
誰かの死を制度として内包する行為まで免罪する言葉ではない。
小さな会社が「明日から爆弾を作ります」と言えば、人は辞めるだろう。
食品会社が「明日から毒を入れます」と言えば、社会は全力で止める。
それが大企業や国家事業になると、許される。
この倒錯こそが、いまの日本社会の異常さだ。
僕は、怒りたいわけでも、誰かを断罪したいわけでもない。ただ、人間としてここだけは越えるな、と言っている。それを言わなくなった社会は、必ずもっと弱い命を切り捨てる。
後藤健二さんのときに越え、やまゆり園事件で越え、原発事故で越え、いま兵器製造で、また越えようとしている。
だから僕は、足りないと感じる。考えることを、やめられない。これは右でも左でもないし思想でも主義でもない。人間として動物以下にならないように最低限の線を引こうとしているだけだ。
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